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仏説観無量寿経①「凡夫のための教え」
 
 
これまで浄土真宗が拠り所とする浄土三部経の内、『仏説無量寿経(大経)』と『仏説阿弥陀経(小経)』を拝読してきました。今回からは残りの一つ、『仏説観無量寿経(観経)』を少しずつ読み進めて参りたいと思います。

 観無量寿経は中国の隋代から唐代にかけて多くの注釈書が掛かれ、大変人気のあったお経です。ただ注釈書がたくさんあるということはそれだけ解釈の違いもあるわけで、お釈迦様の真意がどこにあるのか様々な議論が起こりました。

『仏説観無量寿経』はその経題が示すように、無量寿仏(阿弥陀如来)の観察(かんざつ)が説かれています。経文の大部分はその修行方法について順を追って示されていて、一見すると自力の修行が説かれた聖者のための教えに思えます。実際、中国の名だたる高僧方はこのお経をそのように解釈したのですが、それに異をとなえたのが善導大師という方です。
 善導大師は『観経四帖疏』という書物を著し、この経典は聖者のための教えではなく、自力修行では仏に成れない凡夫のための教えであると主張されたのでした。

 親鸞聖人は善導大師を七高僧の第四祖に数え、正信偈の中で「善導ひとり仏の正意をあきらかにせり」と讃えておられます。
仏説観無量寿経②「王舎城の悲劇」
 
 次のように私は聞かせて頂いた。あるとき、釈尊は王舎城の耆闍崛山においでになって、千二百五十人のすぐれた弟子たちとご一緒であった。また、文殊菩薩を中心とする三万二千の菩薩たちも加わっていた。
 その時、王舎城に阿闍世という王子がいて、提婆達多という悪友にそそのかされて父の頻婆娑羅王を捕え、七重に囲まれた牢獄に閉じこめ、家来たちに命じてひとりもそこに近づくことを許さなかった。


 王舎城はインド北部にあったマガダ国の首都です。耆闍崛山(ぎしゃくっせん)は、その北東に位置する山で、山頂に鷲の形をした岩があることから霊鷲山(りょうじゅせん)とも言われ、ここでは『仏説無量寿経』や『法華経』など多くのお経が説かれました。
 この時、説法の場にはすぐれたお弟子方に加え、たくさんの菩薩方もおられました。

 当時マガダ国を治めていた頻婆娑羅(びんばしゃら)王には阿闍世(あじゃせ)太子というひとり息子がいました。阿闍世はお釈迦さまの弟子であり従弟でもあった提婆達多(だいばだった)にそそのかされ、クーデターを起こして父王を幽閉します。
 この「王舎城の悲劇」といわれる事件が観無量寿経の説かれる機縁となるのです。
仏説観無量寿経③「出生の秘密」
 
 観無量寿経の発端である阿闍世のクーデターがなぜ起こったかについては、次のような因縁が伝えられています。

 阿闍世の父、頻婆娑羅王と妃の韋提希夫人は、長く跡取りを望みながら子に恵まれなかった。
 そのことを占い師にたずねると、国内の山に修行中の仙人がいて、三年後にそのいのちを終え、王の子として生まれ変わると言う。すると王はその三年を待てず兵士に命じて仙人を殺してしまった。
 仙人は恨みの言葉を残して死んだが、程なく妃は懐妊した。王が喜んで占い師に見せると、胎内の子は男子であり、やがて王を害するようになるだろうと告げられる。
 王と妃は恐れ、高楼の上から子を産み落として殺そうとするが、なぜか赤ん坊は手の指を折っただけであった。
 実際に生まれてみれば子は可愛く、王と妃は阿闍世を大切に育てたが、事情を知る者は陰で阿闍世を「折指太子」あるいは生まれながらに恨みを抱く者として「未生怨」と呼んだ。

 
何不自由なく皇太子として成長した阿闍世は親友であった提婆達多より自らの出生の秘密を聞かされます。お釈迦様の教団を我がものにしようと企んでいた提婆達多は、頻婆娑羅に代わって阿闍世が王になり、お釈迦さまに代わって自らが教団を率いようと、クーデターを持ちかけたのでした。 
仏説観無量寿経④「一仏弟子として」
 
 王妃韋提希は深く王の身の上を気遣い、自分の体を洗い清めて、小麦粉に酥密をまぜたものを塗り、胸飾りの一つ一つにぶどうの汁をつめて、ひそかに王のもとへ行き、それを差し上げた。

 クーデターを起こした阿闍世は、父頻婆娑羅を監獄にいれたまま餓死させようとします。頻婆娑羅の妻である韋提希は夫の身を案じ、ひそかに食物を届けました。

 頻婆娑羅王はこれを食べ、水で口をすすいでから合掌して恭しく耆闍崛山の方に向かい、遠く山上の釈尊に礼拝して次のように申し上げた。
「世尊のお弟子の目連尊者は私の親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、私に八斎戒をお授け下さい
 
 目連尊者はお釈迦様のお弟子で、神通力にすぐれていたと言われます。智慧第一の舎利弗と並びお釈迦様の信頼あついお方でした。

 八斎戒とは、五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)に、着飾ったりせず演劇などを見ない・贅沢な寝床を持たない・正午以降は食事しない、の三つを加えた戒で、在家信者は月のうち特定の六日間はこれを守らなければなりませんでした。
 いま頻婆娑羅は身の現状を受け入れ、王の立場を捨てて一仏弟子になろうとしたのかも知れません。

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