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仏説無量寿経(下巻)①「さとりを得る身」
 
 これまで拝読してきた仏説無量寿経の上巻は、阿弥陀様の成仏について説かれていましたが、下巻では私たち衆生の往生についてお釈迦様が明らかにしていかれます。
「さて、無量寿仏の国に生まれる人々はみな正定聚(しょうじょうじゅ)に入る。なぜなら、その国に邪定聚(じゃじょうじゅ)や不定聚(ふじょうじゅ)のものはいないからである」
 正定聚とは「さとりを得る身に定まった仲間」という意味であることは以前に述べました。一方、邪定聚とは「さとることのない仲間」、不定聚は「さとるともさとらぬとも定まっていない仲間」という意味です。この文の当面では浄土で正定聚に入ると読めますが、親鸞聖人はこれを現生(今)においてさとりを得る身に定まると示されました。
 大学受験に喩えますと、合格者と不合格者、不確定者がいるとすれば、「合格者」とは受験生の立場として「不合格者」「不確定者」と比較される言葉であって、大学に入ってしまえば合格者ではなく「大学生」と呼ばれるでしょう。同様に「お浄土に邪定聚、不定聚の者がいない」ということは、正定聚も邪定聚も不定聚もお浄土での話ではなく、現生(今)のことを表していると見られたのです。
 
 私達が仏となるのは臨終後ですが、現生にて信心を頂いたとき、既に成仏が約束されるのです。
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仏説無量寿経(下巻)②「諸仏の称揚」
 
「全ての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる」
 前回では現生正定聚(この世でさとりを得る身に定まること)について述べましたが、これは阿弥陀様の第11願「必至滅度の願」が成就したことを示していました。
 そして今回のご文は、第17願「諸仏称揚の願」が成就したことをお釈迦様が述べられているのです。「称揚」とは「ほめ讃える」という意味です。阿弥陀様が願いの通りに、あらゆる仏がたからほめ讃えられる仏になられたということが示されています。
 仏をほめるとはどういうことでしょうか。私たちは日常ゴマをすることはよくありますが、諸仏のように打算なく本当の意味で仏様を讃えることはできません。真に清らかな心を持ち得ない凡夫の言葉をどれだけ尽くしても、阿弥陀様のお徳をほめ讃えることはできないのです。
 
 阿弥陀様が「南無阿弥陀仏」という言葉の仏様になられたのは、真実の言葉を持たないが私たちに、唯一つ真実の言葉を与えるためであったと言えましょう。
 今「南無阿弥陀仏」とお念仏が聞こえているということは、この第17願が成就した何よりの証拠と言えるのです。
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仏説無量寿経(下巻)③「ご信心をよろこぶ」
 
「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん──」
 これは前回の第17願成就文に続く、第18願成就文の前半部分で、釈尊が阿弥陀様のご本願が確かに成就したことを述べておられます。
「その名号(南無阿弥陀仏)を聞いて信心歓喜──」とありますから、南無阿弥陀仏のいわれ(どうして阿弥陀様が南無阿弥陀仏の声となって届いて下さっているのか)を聞くことが「信心」であり「歓喜」であるということです。逆に言えば、名号のいわれを聞くこと以外に他力の信心はありません。浄土真宗では信心こそが往生成仏の因であるとしますが、この信心は「信じたら救われる」というような自力の信心ではないのです。
 親鸞聖人はご和讃で、
「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」と記されました。
 信心を喜ぶことが出来るのは、それが他力の信心だからです。そして聖人はその信心を「大信心」であり「仏性(仏になるたね)」であると示されるのです。
 私の作り出す「信じる心」は縁によって失われてしまう当てにならないものです。一方で他力の信心は如来より賜った「ご信心」ですから、何があっても壊れることのない「金剛の信心」といわれるのです。
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仏説無量寿経(下巻)④「至心に回向したまへり」
 
「(あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。)至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」
 前回に続いて第18願成就文の続きです。
 この部分、通常は「至心に回向して、かの国に生まれんと願ずれば」と読むところを、親鸞聖人は「至心に回向したまへり~」と読み替えられました。私が至心(まことの心)をもって回向(仏さまに功徳を振り向ける)するという所を、阿弥陀様がまことの心をもって回向して下さったのだから~と読まれたのです。
 つまり至心とは私が起こすものではなく、阿弥陀様のお心であって、喜ぶ心(信心)さえも阿弥陀様が回向して下さったということです。
 親鸞聖人にとって「回向」とは私が仏さまに向けるものではなく、仏さまが私に向けて届けて下さるおはたらきでした。もちろんこれは親鸞聖人が読み間違えられたのではなく、阿弥陀様のお心にそって釈尊の教説を読まれたがゆえのことです。
 また往生する身に定まることも、ご信心を頂いた「今」においてです。お念仏の道とは、救われるかどうかが定まらない不安定な道のりではありません。既に救いの「み手」の中に抱かれている安心をもって生きてゆく道です。
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仏説無量寿経(下巻)⑤「いずれの行もおよびがたき身」
 お釈迦様は続けて仰せになりました。
「全ての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願う者に、大きく分けて上輩・中輩・下輩の三種がある──」
 私たちはそれぞれに能力や立場が違いますから、修めることが出来る行とその効果にも差が出てきます。
ここでお釈迦様はそれぞれの行に応じて臨終来迎(臨終に仏や菩薩が迎えに来る)の様子や、お浄土での果徳が変わることを説いていかれます。
 このような話を聞いて、皆さんはご自身を上・中・下輩のどこに位置づけられるでしょうか。よほどの自信家か卑屈な人でない限り「中の上くらい」というのが、多くの人にとって(願望を含めて)の思いのような気がします。
 しかし「いずれの行もおよびがたき身」と自らを省みられた親鸞聖人は、このご文を諸々の行を修めて覚りをめざす、自力諸行往生を表わす文とされています。
 そもそも、私の行いに応じて、お浄土での果報が異なるお救いはお釈迦様の本意ではありません。心を整えることも行を修めることも出来ない凡夫を目当てに説かれたのが無量寿経ですから、ここでお釈迦様は、自力心にとらわれる者を他力念仏の教えに導くために、あえてお説き下さっているのでしょう。
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仏説無量寿経(下巻)⑥「往覲偈」
 
 続いて釈尊は「往覲偈(おうごんげ)」又は「東方偈」といわれる偈文をとなえます。その内容は、十方の菩薩方が浄土に往き覲え(ゆきまみえ)て阿弥陀様を供養讃嘆するところから始まります。菩薩方は、そこで阿弥陀様の説法を聞いて再び自らの国に帰り、自国の者達に阿弥陀様のすばらしさを伝え、浄土をめざすことを勧められるのです。
 無量寿経には「讃仏偈」「重誓偈」と、この「往覲偈」の三つの偈文がありますが、親鸞聖人は、この「往覲偈」を自著の中で最も多く引用されています。そこには、「浄土とは行ったきりの世界ではない」という、聖人の浄土観が表れているように思います。
 釈尊は偈文を終えると「その国の菩薩達は、みな一生補所の位に至ることができる。ただし、その菩薩の願によっては、人々のために尊い誓願の功徳を身にそなえて、その位につかないで広く全ての人々をすくうこともできる」と続けられます。
 浄土とは自分の楽しみだけを満たす世界ではなく、苦悩する者をすくうためにはたらき続ける世界です。私達が浄土をめざすのは尊い覚りの仏となるためですが、それは同時に、迷いの衆生をすくうためにこの世に還ってくることをも意味するのです。
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仏説無量寿経(下巻)⑦「観音菩薩と勢至菩薩」

 続けて釈尊は浄土で最もすぐれた二人の菩薩の名を挙げられます。

「ひとりを観世音といい、ひとりを大勢至という。この二人の菩薩は、かつてこの娑婆世界で菩薩の修行をし、命を終えた後、無量寿仏の国に生れたのである」

 この二菩薩の光は広く世界中を照らし、人々を導きます。これも自利利他円満(自らの覚りだけではなく、他者を利益するはたらきを具えている)の菩薩の姿として釈尊がお説き下さっているのです。

 ところで、この観音・勢至の二菩薩は阿弥陀様の脇士(わきじ)として知られます。この場合、観音・勢至はそれぞれ阿弥陀様の慈悲と智慧のお徳を表わします。つまり観音菩薩と勢至菩薩は阿弥陀様と別のお方ではなく、阿弥陀様のはたらきとして示されるのです。

 如来(仏)とは覚りを指す言葉ですが、一方で菩薩は如来のはたらきを表します。浄土にて仏となり、また菩薩として還って来るというのは、阿弥陀様のはたらきに同じるということです。親鸞聖人は師の法然聖人を勢至菩薩の化身と仰がれ、また妻の恵心尼公とはお互いを観音菩薩の生まれ変わりと見られていました。これもまた阿弥陀様のおはたらきの味わいと言えるのではないでしょうか。
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仏説無量寿経(下巻)⑧「供養とは」

 続けて釈尊は仰せになりました。

「その国の菩薩たちは無量寿仏のすぐれた神通力を受けて、一度食事するほどの短い時間の内にすべての数限りない世界に行き、様々な仏がたを敬い供養する」

 お浄土に生れた者は、自在にあらゆる世界に至り仏さまを供養します。その供養に必要なものも思いのままに現れ、そして仏がたの教えを聴聞し、無上の喜びを得るといいます。

 供養とは一体何でしょうか。一般的には、亡くなられた方が迷わないように、供物を捧げ、功徳を振り向けることが供養であると考えられているようです。しかし供養の本来の意味は「敬意をもってもてなすこと」です。
 尊敬すべきお方を最大限に敬い、お徳を讃嘆する。そしてその方の言葉に耳を傾け、大きな喜びを得る行為なのです。この浄土における供養の姿は、娑婆世界にある私達にも当てはまります。
 
 親鸞聖人は、
「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず」と仰っています。
 
 父や母の追善供養のためにお念仏を申したことはない、ということです。私達の仏事における、供物も、礼拝も、読経も、聴聞も、全て仏さまを敬い、法を聞いて喜ぶ営みであり、それこそが亡きお方を本当の意味で供養することになるのです。
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仏説無量寿経(下巻)⑨「仏の正しさ・私の正しさ」
「無量寿仏の国に生れた菩薩たちは、教えを説く相手に対して常に正しい法を説き述べ、仏の智慧にかなって決して誤ることがない」
 仏さまの教えが真実であるのは、それが正しい智慧に基づいているからです。言い方を変えれば、智慧のない世界ではどのような正しさも当てにはなりません。
「正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい」
 詩人吉野弘さんの『祝婚歌』の一節です。これは姪御さんの結婚式に出席出来ない吉野さんが送られたものだそうで、姪御さんに良い夫婦でいて欲しいとの吉野さんの願いが込められています。と同時にこれは吉野さん自身への言葉でもあり、また奥さんに対する御礼の詩でもあったようです。
 争いとは「正しさ」と「正しさ」のぶつかり合いで起こります。ちょっと立ち止まって、自分の「正しさ」に疑問を持つことも大切かも知れません。
 仏さまの智慧に照らされなければ自らの誤りに気付くことができないのが、私達凡夫の有り様です。もしそこで、私が相手の立場に立って物事を考え、新しい視野と感謝の気持ちが芽生えたなら、それこそが仏さまの智慧のはたらきなのでしょう。
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仏説無量寿経(下巻)⑩「これは私のもの」
 続けて、釈尊はお浄土に生れた人々のお徳をつぶさに説いていかれます。全てのことに執着する心を持たず、自由自在であって、何ものも疎んじることがない。自分と他人とにへだてがなく、心はいつも清らかで、あらゆる者を平等に、ただひたすらに救おうとされるのが浄土の仏様です。
 仏様にはどのような執着もありません。私達は生きている上で「私のもの」と「そうでないもの」を分けへだてして、それに執着します。お金や所有物、あるいは他者の心、そして自らの肉体やいのちについても。
 しかし、仏教では「これは私のものである」というものは何ものも存在しないと説きます。全ては仮にそうなっているだけであって、縁によって生じ、縁によって変化して滅するものなのです。私達の苦悩はこの「私のもの」が失われてゆくところに生じます。そして、そのことを明らかに見ることが出来ない(無明)こそがあらゆる迷いの原点なのです。
 仏様が、どのような者も平等に救おうとされるのは、「私のもの」というとらわれを持たないからです。自分と他人とにへだてがないゆえに、私の苦しみは仏様の苦しみでもあるのです。
 他者の苦しみを我が苦しみとして、あなたが救われなければ私も救われない、というお心を「大慈大悲」と言います。
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仏説無量寿経(下巻)⑪「弥陀同体のはたらき」
 お浄土の方々は「真如の世界から現れ出た菩薩であるから、全てのもののまことのすがたをさとっており、人々に善を積ませ悪を除かせる手立てを心得ていて、世俗の理屈を好まず、まことの道理だけを楽しむのである」
 お浄土に生れた方は、おさとりの仏さまとなりますが、そのまま安住せず迷いの世界に戻り残された者を導かれます。これを還相の菩薩と言い、真如(さとりの世界)から仏さまがおはたらき下さるお姿です。
 世俗の理屈はまことの道理にかなっていません。あらゆるものは変わりゆくのに、私達はそれを厭い、変わらぬものがあると信じます。また思い通りにならぬ事を思い通りにしたいと思い、自ら苦悩するのです。そういう者をあわれみ、まことの世界へ生れさせたいと願われるのが仏・菩薩のお心です。
 親鸞聖人は「弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり」と記し、阿弥陀様はさとりの世界から様々な姿をとって現れ、私達をお導き下さると示されています。
 私達がお浄土で得る功徳は仏さまの持つ功徳と同一であり、その功徳は必ず衆生をすくうはたらきとして現れます。そしてそれは阿弥陀様と全く同じ、弥陀同体のすぐれたはたらきでもあるのです。
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仏説無量寿経(下巻)⑫「虚空のごとし」
 この後、釈尊は浄土の菩薩がたのお徳を、
「それはまた雪山のようである。全ての功徳を等しく清らかに照らし輝かすから。また大地のようである。清らかなものも汚れたものも善いものも悪いものも、へだてなくその上に乗せるから……」と言うように二十の譬えで表わされます。
 言葉では表せない覚りの世界を言葉で表わしたのがお経ですから、経典にはこのような表現が度々出てきます。様々な表現でそのお徳を讃えるのです。
 今回拝読していて、二十の譬えの中で二度使われて被っている言葉があることに気付きました。それは「虚空のごとし」という表現です。「虚空」は大空と訳され、六番目に「全てのものにとらわれないから」とあります。そして最後の二十番目に「全ての人々を平等に慈しむから」と締めくくられているのです。とらわれを離れることは智慧のはたらきであり、また平等のはたらきは慈悲の心でしょう。
 大空とは私達が目にする中で最も広く大きなものではないでしょうか。お浄土の菩薩がたの譬えとして、二度も大空が使われていることに、お浄土と仏・菩薩の本質が表われている気がします。
 お浄土とは現実から離れたどこかではなくて、果てしなく広がり、私達をどこまでも包み込む世界なのです。
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仏説無量寿経(下巻)⑬「浄土の菩薩がた」
 さらに釈尊は、浄土の菩薩がたのすぐれた功徳と、そなえている神通力を述べられたあと、次のように結ばれます。
「その国の菩薩たちは、すぐれた姿やさまざまな功徳や弁舌の智慧などをそなえて世間に並ぶものがない。また、数限りない仏がたを敬い供養したてまつり、そしてその仏がたもみな、いつもこの菩薩をほめたたえておいでになる」
 お浄土に生れた方々は諸仏に超えすぐれた素晴らしいさとりを開いておられます。そしてそれはあらゆる仏がたもほめたたえるお姿なのです。
「阿難よ、その国の菩薩たちはこのようなはかり知れない功徳をそなえているのである。今、私はそなたのためにほんの一部を説いたのであって、もし詳しく説けば、どれほど長い年月をかけても説き尽くすことはできない」
 浄土に先立って行かれた方々を想うとき、このようにすぐれた徳をそなえ、今まさに私を導いて下さっているのだと味わいますと、心強さと共に安らかな気持ちを覚えないでしょうか。
「南無阿弥陀仏」とは、仏さまがいつもそばにいて下さることを知らせる名のりです。称えたところに、いつでも仏さまに出遇うことができるとは何とも有り難いことです。
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仏説無量寿経(下巻)⑭「そのまま救う」
「無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧が優れ、またその国土が美しく清らかであることはすでに述べた通りである。それなのにどうして人々は、阿弥陀如来の願いのままに、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか」
 ここまで上・下巻を通じ、お釈迦様は阿難尊者に向って弥陀成仏の因果と、私たち衆生往生の因果を説かれてきました。そこには、ただひたすらに阿弥陀様のご苦労とお浄土の素晴らしさが述べられ、私たちの「罪」や「生き方」は全く示されていません。それは、罪や生き方を沙汰していては、そこからもれる者が必ず出てくるからです。
「そのまま救う」という、阿弥陀さまの願いがすでに成就して、この身にはたらいていることを示された、これまでの部分を「弥陀分」といいます。そして、この後はお釈迦様があらゆる人々に悪を誡め、信を勧める「釈迦分」と呼ばれる部分に入っていきます。
 阿弥陀様は大悲のみ親として、私たちに罪も生き方も告げられませんが、お釈迦様は教師の立場として、老婆心からこの後の部分を付け足して下さいました。いつの時代でも変わることのない、私たち凡夫の姿でありますので、真摯にお聞かせ頂きたいと思います。
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仏説無量寿経(下巻)⑮「往き易くして人なし」
「無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままに全ての人々を受け入れて下さる」
 お浄土は「易往而無人(往き易くして人なし)」とのお釈迦様のお言葉です。全ての人々を受け入れる往生しやすい世界であるのに、そこへ生れる人はまれである、というのですが、これはどうしてでしょうか。
 親鸞聖人はその理由を「真実の信心を頂いた人が少ないから」と示されています。真実の信心とは、もちろん私が起こす信心のことではありません。
 親鸞聖人が言われる「真実」とは常に阿弥陀様の側にあります。虚仮不実の私の上に届いた仏様の真実心こそが浄土真宗で言うところの信心です。ですから、真実の信心とは私が生み出すものではなく、どこまでも頂きもの、賜りものなのです。
 頂きものをそのまま頂くことは簡単なことのようですが、これを邪魔するのがはからいの心、自力心です。人間には自分の力をあてにしたいという本性があって、それを自ら除くことは極めて困難ですが、阿弥陀様の「かならず救う」という真実のお心に出遇ったところに、はじめて我がはからいの心、自力心はすたれてゆくのです。
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仏説無量寿経 下巻⑯「むさぼりの心」
「世間の人々は、身分や貧富、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがない」
 ここからお釈迦様の具体的な勧誡が始まります。まずは「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴(ぐち)」の三毒の煩悩から、むさぼりの心「貪欲」についてです。
 お経の中では「有田憂田 有宅憂宅……」あるいは「無田亦憂 欲有田 無宅亦憂 欲有宅……」と説かれています。
 私たちは日常、欲しい物が得られることで幸せを感じますが、実際は田や家があればあるなりにそのことを心配して悩み、無ければ無いで欲しがりまた苦しむのです。さらに、どれだけのものを獲得したとしても、いつかは全てを残してただひとりこの世を去らなければなりません。
 貪欲にしばられて大切なことに気付かず、空しく命終わっていく我々のあり様を、お釈迦様は嘆かれるのです。
 私たちは「あれも欲しいこれも欲しい」と限りなくむさぼり求めます、その欲求がここまで世の中を発展させてきたことも事実ですが、物質的な豊かさや便利さに、私たちの根本的な苦しみを除くはたらきはないようです。
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仏説無量寿経(下巻)⑰「怒りの心」
「世間の人々は、親子・兄弟・夫婦などの家族や親類縁者など、互いに敬い親しみ合って、憎みねたんではならない」
 次は三毒の煩悩の内の「瞋恚(しんに)」、私たちの怒りの心についてです。ここでは家族や親類のあるべき人間関係について述べられていますが、あらゆる人間関係においても通ずる話でしょう。
「争いを起こして怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世には次第にそれが激しくなり、ついには大きなうらみとなるのである」
 世界中で起こっている人間同士の様々な争いを見れば、いつの時代も私たちは怒りや憎しみの心を持ってお互いに傷つけ合ってきました。そしてお互いが、自分にこそ怒りやうらみを持つ正当な理由があると思っているのです。
 お釈迦様は「うらみに報いるのにうらみをもってしたならば、ついにうらみが止むことはない。うらみを捨ててこそやむ」と仰っています。
 その場限りの争いに収まらないのが瞋恚の厄介なところです。沸々と怒りの心が沸いたとき、怒りの種は他者より生じるものではなく、自ら生み出し植え付けているのです。
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仏説無量寿経(下巻)⑱「独生独死独去独来」
「人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独り生れ独り死し、独り去り独り来るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れてゆく。全ては自分自身がそれにあたるのであって、誰も代わってくれる者はない」
 私たちはたった独り、この恵まれた人生を生ききらなければなりません。どれほど親しい方であっても、その方の人生を代わりに生きて差し上げることも、代わって生きてもらうことも出来ないのです。
 仏教は因果を説きますので、それぞれの行いに応じて次に生れてゆく世界が変わります。ですから、私以外の方のいのちの行方はその方ご自身の問題であって、他者が沙汰するものではありません。
 しかし、私たち阿弥陀様の願いに生きる者は先立たれた方々をお浄土の尊い仏様と仰ぎます。それは、お浄土という世界が私の行いによって生れてゆく世界ではないからです。
 お浄土は阿弥陀様が全てのいのちを迎えたいと願われた世界です。そして私たちの生き方や行いを一切あてにせず、お救いの功徳は全て「南無阿弥陀仏」の名号に込められてあるのです。
 私が今ここにおいて、往生も成仏も喜ぶことがるのは、阿弥陀様におまかせの世界だからです。
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仏説無量寿経(下巻)⑲「愚痴の心」
「世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない~善悪因果の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまで認めようとしない」
 貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)に続いて、愚痴(おろかさ)についての誡めです。
 この「愚痴」とは因果の道理をわきまえていないことを言います。振り返ってみますと、私たちは自分の欲を満たすために神仏を拝んだり、都合の悪いことがあると先祖の祟りといって誤魔化したりしていないでしょうか。このように因のないところに果を求めたり、果より勝手な因を導き出して、人は迷いを深めていきます。現代語の「愚痴をこぼす」ということも因果に暗いがゆえかも知れません。
 私たちは自己中心性を抱えて生きていますから、いかなる善い行いも末通ったものとはなりません。そこには常に打算や見返りといった毒が混じるのです。
 どのような善行も修められない凡夫をご覧になった阿弥陀様は、自らが一切混じりけの無い善因となって浄土往生という果を与えて下さるのでした。どのような悪も阿弥陀様の善を妨げることは出来ませんから、南無阿弥陀仏は私たち凡夫の因果を超えてお救い下さるおはたらきと言えましょう。
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仏説無量寿経(下巻)⑳「後生の一大事」
「生まれ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常の道理である」
 親鸞聖人から数えて八代目に当たる蓮如上人が書かれた「白骨の御文章」というお手紙の中に「されば、人間のはかなき事、は老少不定のさかいなれば━━」というお言葉が出てきます。
 まさにこの釈尊のお言葉の通り、老いたものが先で、若いものが後とは限らないのが世のありようです。人間のいのちとは因と縁によってどのようになるかわかりません。では、私たちは明日をも知らぬ不確かないのちを不安に怯えながら毎日過ごすしかないのでしょうか。
 蓮如上人は続けて次のようにお示し下さいます。「━━たれの人もはやく後生の一大事をこころにかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」。
 
 不確かないのちであるがゆえに、確かな仏の願いに今出遇うことが大切というのです。「後生の一大事」とは「私のいのちの行方」です。お念仏を頂くことは、我がいのちの解決であり、このことひとつで生きてゆける、死んでゆけるものに出遇うということなのです。
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仏説無量寿経(下巻)㉑「生死を経めぐるいのち」
「こういう人々は心が愚かであり頑なであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかりである。欲望にとらわれて覚りの道に入ろうとせず、怒りに狂い、財欲と色欲を貪ることはまるで飢えた狼のようである。そのために覚りが得られず、再び迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生まれ変わり死に変わりし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか」
 釈尊の厳しいお言葉です。我が身に引き当てて思い当たるところはあるでしょうか。ここで釈尊があえて厳しく仰っているのは、私たちがこれらのありさまを自分では気付くことが出来ないからです。またもし教えられたとしても、それを直して生きていくことが出来ない私がいるということです。
「あなたがこれまで生まれ変わり死に変わり、迷いの世界を経めぐってきたのはそういうわけなんだよ」と教えて下さっているのです。
 仏さまは、私たち凡夫の姿をご覧になって深く悲しみ、哀れんでおられますが、決して見捨てることはありません。むしろそういう者だからこそ何とかして救おうと願われるのです。
「生死の苦におののく全ての人に大きな安らぎを与えたい」。
『讃仏偈』にある法蔵菩薩(阿弥陀様の前身)のお言葉です。これが今私たちにかけられている仏さまの願いです。
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仏説無量寿経(下巻)㉒「のせてかならずわたしける」
「このような人々は、これまでの悪い行いが必ず悪い縁となって、またほしいままに悪い行いを重ねるのである」
 これまで述べた三毒の煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴)に振り回されて生きている者は、自らの悪業によってまた悪業を重ね、また苦しみの世界へ生れることになります。「私」とは、それを久遠の過去よりはるか未来まで繰り返し続けるいのちである、と阿弥陀様は見抜かれたのです。
「生死の苦海ほとりなし
  ひさしくしづめる我らをば
  弥陀弘誓のふねのみぞ
  のせてかならずわたしける」(高僧和讃)
 真っ暗な海の底に沈み、自分の力では永遠に抜け出せないと知らされれば、この世に生まれた一つのいのちにとってこれほどの不安はありません。しかし、そのことはすでに阿弥陀様が見抜いて下さっているのです。全てをご承知の上で、私が生れてゆく覚りの世界も、私を救う手立ても完成させて、今この身にはたらきかけて下さっています。
「あなたが迷いの海を渡れないのなら、私があなたを間違いなく浄土へと渡す船となろう」。
「南無阿弥陀仏」には、そのような阿弥陀さまのお心が込められているのです。
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仏説無量寿経(下巻)㉓「弥勒菩薩」
 続けてお釈迦様は弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになりました。
「私は今、そなたたちに世間の有様を語った。(中略)幸いにも今は仏が世にいるのだから、努め励んで覚りを求めるが良い。(中略)もし疑問があって、私の教えることがよく分からないようなら、どのようなことでも尋ねるがよい。私はその者のために説いて答えよう」
 このお経の聞き手は基本的に阿難尊者なのですが、実は少し前のお釈迦様の誡め「釈迦分」より、説く相手が変わっています。突如として弥勒菩薩が登場し、聞き手は弥勒菩薩と天人や人々となっているのです。
 それまで二人のやり取りを聞いていた聴衆(つまりは私)に向けてお釈迦様が「皆も聞きなさい」と語り始めるシーンを想像してみて下さい。
 お釈迦様が入滅されて二千五百年、今は無仏(法を説くブッダがいない)の時代です。そして弥勒菩薩とは、これから五十六億七千万年後に地上に現れ、ブッダとなって人々を導かれるお方です。
 お釈迦様が弥勒菩薩に、煩悩を抱えた私たちのありさまを説いて聞かせていることは象徴的です。お釈迦様はここで、無仏の時代であっても人々を救う法があることを弥勒菩薩へ示し、遙か未来へのバトンを渡されたのでしょうか。
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仏説無量寿経(下巻)㉔「いのちの平等」
 弥勒菩薩がうやうやしくひざまずいて申し上げる。
「世尊の神々しいお姿は実に尊く、お説きになった教えはまことに有り難く存じます。(中略)世尊の教えを聞いて喜ばないものはありません。天人や人々をはじめ小さな虫などに至るまで、皆そのお慈悲によって苦悩を離れることができます」
 釈尊の話を聞いて弥勒菩薩が喜びの言葉を述べます。そして仏法を聞いて喜ぶのは、天人や人間だけではありません。小さな虫に至るまで阿弥陀様のお慈悲は平等に注がれていると言うのです。原文では「蠕動(ねんどう)の類」と記されています。蠕動とはグネグネうごめく生き物のことですから、蛇やミミズ、毛虫のような、通常忌み嫌われる者たちです。
 仏教はいのちの平等を説きます。人間のいのちは尊くて、ミミズや毛虫のいのちは卑しいとは考えません。殺して良い害虫もなければ、食べて良い動物も存在しないのです。人間は自分の都合で善し悪しを決めて、生き物のいのちを奪いますが、阿弥陀様のまなざしは違います。生きとし生けるものに「衆生よ」と喚びかけ、平等に救おうとされます。
 あらゆる衆生は、同じく阿弥陀様のお慈悲の中に抱かれてあるのです。
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仏説無量寿経(下巻)㉕「釈尊の過去世」
弥勒菩薩が釈尊を讃えて申し上げます。
「今わたしたちが迷いを離れることができたのは、ひとえに、世尊が前世においてさとりをお求めになったとき、ご苦労していただいたおかげです」
 お釈迦様は29歳で出家され、35歳の時にお覚りを開かれました。「桃栗三年柿八年」と言うように、何事かをなすためにはそれなりの年月が掛かるもの。わずか六年で覚るというのは短すぎるように思えますが、お釈迦様のお覚りは単にこの六年のご修行の結果ではありません。
 お釈迦様は今生までに様々ないのちとして生死を繰り返しながら、徳を重ねてこられたとされるのです。
 お釈迦様の前世を記した『本生譚』には「尸毘王(しびおう)」の物語があります。
 鷹に追われた鳩を救うために、王が鳩と同じ分量の自分の肉を切り取って鷹に与えますが、いのちの天秤はつり合わず、ついにすべての肉を載せてはじめてつり合ったという話。
 尸毘王はお釈迦様の前世で、その慈悲による善行を通していのちの平等が説かれています。
 こうした前世でのお徳の積み重ねが人間ゴータマ・シッダールタの上に結実し、覚りへとつながるのです。今私たちがお念仏のみ教えに出遇えたことも、こうしたお釈迦様のご苦労があったからに他なりません。
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仏説無量寿経(下巻)㉖「親のよび声」
「今私たちは世尊にお会いすることができ、また無量寿仏の声を聞かせていただいて、喜ばないものはひとりもおりません。みな心が開かれて、くもりが除かれました」
 お釈迦様がお出ましになられたがゆえに、私たちは阿弥陀如来(無量寿仏)という仏様がいますことを知ることができました。そして、お釈迦様が阿弥陀様のお徳を讃え、「南無阿弥陀仏」のみ名を伝えて下さることは、そのまま阿弥陀様の喚び声を聞いていることなのです。
 阿弥陀様の17番目の誓いに「全ての世界の数限りない仏がたが、みな私の名をほめたたえないようなら、私は決して覚りをひらきません」とあります。また「重誓偈」には「わが名が十方全ての世界に届かないなら覚りはひらきません」と重ねて誓われています。
 つまり、お釈迦様の称える「南無阿弥陀仏」も、私が称える「南無阿弥陀仏」も、阿弥陀様のお誓いが成就して、はたらいて下さっている姿なのです。
「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの 親のよび声(原口針水和上)」。
 私がこの口で称え、この耳で聞いているお念仏は、「お前を浄土に渡し、仏にするぞ」という、いのちの親の喚び声なのでした。
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仏説無量寿経(下巻)㉗「阿弥陀様とお釈迦様」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになります。
「仏が世に出るのはきわめてまれなことであるが、今わたしはこの世で仏となって法を説き、教えをひろめ、さまざまな疑いを断ち切り、執着を根本から抜き去り、すべての悪の源を閉じふさぎ、迷いの世界へ行って自由自在に人々を導いている」
 仏さまは、覚りの境涯に安住しているお方ではありません。自らに対する執着(我執)を離れた仏は、必ず他者への慈悲の心を起こし、迷いの世界へ飛び込んで来て下さるのです。お釈迦さまも、覚りの境涯から迷いの人間境涯へ現れて下さったお方です。
「久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する」(浄土和讃)
 永遠不変の真理、法そのもののはたらきである阿弥陀さまが、私たち衆生をあわれみ、あえて人間の姿をとってお釈迦さまとして現れて下さいました。
 そのお釈迦さまが「南無阿弥陀仏」とお念仏申し、仏となる道を教えて下さったのです。そして、私たちの口から称えられる「南無阿弥陀仏」こそが、迷いの世界へ飛び込んで自由自在にはたらく阿弥陀さまの声のお姿なのでした。
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仏説無量寿経(下巻)㉘「阿弥陀様の物語」
「弥勒よ、知るがよい─(中略)─そなたをはじめ、様々な世界の天人や人々は、出家のものも在家のものも、男であれ女であれ、皆はるかな昔から迷いの世界に生まれ変わり死に変わりして憂え苦しみ続けてきたのであって、そのありさまを詳しく述べ尽くすことはできない。そして今もなお迷いの世界にとどまり続けている。このたびそなたたちは仏にであい、教えを聞き、また無量寿仏(阿弥陀仏)のことを聞くことができた。まことに喜ばしく、実に善いことである。私もそれをともに喜びたい」
 弥勒菩薩ですら、自力で覚りにいたるには五十六億七千万年かかると言われています。それが、阿弥陀如来の他力によっては弥勒も凡夫も等しく次の生にて仏となることを約束されるのですから、この阿弥陀様のお救いがいかに世に超え優れたものであるかが分かります。
 
「そんな都合のいい話があるものか」と思われる方は、どうぞ阿弥陀様の物語に耳を傾けてみて下さい。この私を救うために、どれだけ阿弥陀様が心を砕き、ご苦労をされたか。それを素直に「聞く」ことが浄土真宗の「信心」です。
「私が何を成したか」ではなく、「阿弥陀様が私のために何を成したもうたか」をお聞かせ頂きましょう。
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仏説無量寿経(下巻)㉙「浄土の時間」
「(浄土の)寿命は一劫でも百劫でも、あるいは千万億劫でも、自由自在に得ることができる。まことにその国ははからいを離れた世界であり、涅槃のさとりに至るのである」
 阿弥陀様の四十八願の第十五願には「浄土に往生した者には、希望によってその寿命の長短を自由にさせよう」と誓われています。
 浄土の往生人には阿弥陀様と同じ限りないいのちが与えられますが、その者が望めば、それぞれのいのちを短くも長くもできるというのです。それは、いつでも浄土から十方に赴き、人々を救うことができるようにとの阿弥陀様のお図いです。
 親しい方を送り残された者とっては、先立った方々がどこでどうされているかは気がかりなことと思います。何十年も前に往生したあの人は、お浄土でずっと待ち続けているのだろうかと。しかし、この阿弥陀様の誓いをうかがえば、そのような思いは杞憂であるように思われます。
 いのちに限りがなく、長さも自由であるということは、お浄土とは時間を超えた世界ということでしょう。残された私が過ごす年月は、浄土の仏様にとっては永遠でもあり、一瞬でもあるのです。それはいつもそばにいてはたらき続けて下さるということでもあります。
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仏説無量寿経(下巻)㉚「一切は苦なり」
「そなたたちは、今こそ生・老・病・死の苦しみを離れようと思うがよい。この世は醜く汚れに満ちていて、楽しむべきものは何もない」
 お釈迦さまは仏教の旗印として、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三法印に加えて、「一切皆苦」と仰っています。
 私たちは「生老病死」の根本苦をはじめ、「愛別離苦(愛する者との別れ)」「怨憎会苦(憎む者に会う)」「求不得苦(求めるものが得られない)」「怨憎会苦(肉体と精神が思うようにならない)」と、まさに四苦八苦のいのちを生きています。
 しかし「一切は苦なり」と言っても、この世界そのものが苦しみに満ちているということではありません。「思い通りにしたい」という欲が叶わないことが我が身と心を煩わせ、苦しみとなるのです。
 この言葉は「この世は思い通りにならないことばかり」という事実をお示し下さっています。
「そういう苦しみの世界を離れ、お覚りのお浄土を目指しなさい」と、お釈迦はお勧め下さるわけですが、一方ご遺言の中では「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」とも仰っています。
 思い通りにならない苦しみに満ちた世ではあっても「尊い一生であった、人間に生まれて良かった」と頷いていけるのがブッダの教えなのでしょう。
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仏説無量寿経(下巻)㉛「五悪段」
お釈迦様の勧めに対して弥勒菩薩が答えます。
「世尊の懇切丁寧な教えを頂きましたからには、ひたすら覚りを求めて仰せの通りに奉行し、決して疑うようなことはございません」
 この「奉行(ぶぎょう)」とは、仰せの通りに守り行うということです。お釈迦様の仰せとは「阿弥陀様にお任せして、お念仏申す人生を送りなさい」ということですから、私たちは仰せのままにお念仏をいただくばかりです。
 この後、お釈迦様はこの世の現実を五つに分けて説き述べられます。通常『五悪段』と言われる部分です。
「そなたたちが、この世において心を正しくして、いろいろな悪を犯さなければ、それはきわめてすぐれた徳であり、すべての世界に類を見ないことであろう。なぜなら、他の仏がたの国の天人や人びとはおのずから善い行いができ、悪を犯すことがほとんどなく、さとりの世界に導き入れることがたやすいからである」
 はじめに、この人間境涯がいかに覚りを得難いかを説かれます。他の仏がたの国の天人や人びとは進んで善を行い悪を厭うのに対し、私たちの世界は誰もが煩悩に振り回され、自分勝手に生きているからです。そんな中で、もし仏になるための徳を積めるようなことがあるならば、稀有なことであるというのです。
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仏説無量寿経(下巻)㉜「庄松を助けるぞよ」
「今私がこの世界で仏となって、次に述べるような五悪と、五痛と、五焼に満ちた世の中にいることは大変な苦労なのである。しかしその中で人々を教え導いて、五悪をやめさせ、五痛を遠ざけ、五焼を離れさせ、そしてその悪い心を抑えて、五善をたもたせ、功徳を得させ、迷いの世界を離れさせ、限りない命を与えて覚りを得させたいと思う」
 お釈迦様の大きなお慈悲の心がうかがえます。苦悩の中にある者を前にして、ひとり覚りすましていられないのが仏様です。
 
 この後、具体的に五悪が示されていきますが、この五悪段、我が身に引き当てると大変読み辛い内容ですので、まずは讃岐の庄松同行のエピソードをご紹介しておきたいと思います。
 庄松さんは日頃から良く聴聞して、お寺の住職から可愛がられていました。そのことを妬んだ役僧の一人が「お前は有難い同行だそうだが、ひとつこのお経を読んでみてくれ」と、庄松さんが字を読めないことを知りつつ、皆の前でこの五悪段を読ませようとしました。すると庄松さんは平気な顔でお経を恭しく頂戴し「庄松を助けるぞよ、庄松を助けるぞよと書いてある」と言ったということです。
 五悪のお示しの中に、阿弥陀様のお慈悲を味わっていかれたのです。そのようなお心でおつきあい頂ければと思います。
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仏説無量寿経(下巻)㉝「第一の悪」
「第一の悪とは次のようである。天人や人々をはじめ小さな虫のたぐいに至るまで、すべてのものはいろいろな悪を犯しているのであって、強いものは弱いものをしいたげ、互いに傷つけあい殺しあっている」
 第一の悪は殺生についてです。すべての生き物は、他者を犠牲にして生きています。
「私はこれまで、いかなる殺生も犯したことはない」という方はおられるでしょうか。ここでいう殺生とは、直接手を下した行為だけではありません。他のいのちを頂いている限り、間接的に殺生を行っているのです。
 お釈迦様は、少しでも殺生を避けるために、小さな虫が這い回る雨季の外出を控えるよう戒めました。
 また、托鉢においては、捧げられたものが肉であった場合、①殺されるところを見ていない②自分に供するために殺したと聞いていない③自分に供するために殺したと知らない(三種の浄肉)もの以外食することを禁じています。
 植物も生きています。また植物を良く育てるためには駆除されるいのちもあるでしょう。食に限らず、あらゆるところで気づかない内に他のいのちを奪っているということを知らされたなら、おのずと慚愧の思いと感謝の心が生まれてくるのではないでしょうか。
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仏説無量寿経(下巻)㉞「第二の悪」
「第二の悪とは次のようである。世間の人々は、親子も兄弟も夫婦など一家の者も、道義を全くわきまえず、規則に従わず、贅沢を好み、みだらで、人を見下し、勝手気ままで、各自が快楽を求め、思いのままに互いを欺き惑わし合っている。
 言葉と思いが別々で、そのどちらも誠実でなく、へつらい上手でまごころに欠け、言葉巧みにお世辞を言い、賢いものを妬み、善人を悪く言い、他人をけなしおとしいれるのである」
 全く耳に痛いお言葉です。
「言葉と思いが別々」というのは誰もが頷けるのではないでしょうか。仏様の言葉は真実のみが語られる一方、私たちは自らの思いを遂げるためには思ってもいないことを言ったり、思っていることを隠したりします。
 もちろん、私たちが心で思っていることを全てそのまま話すようになったら、世の中は成り立たなくなります。私たちの心は身勝手で、他人に話せないような醜さ・恐ろしさを持っているのですから。
 この第二の悪は「偸盗」つまり盗みの悪とされます。
 道義をわきまえず、不誠実であることは他者から様々なものを奪っていることなのでしょう。お互いに奪い合いながら、危ういバランスの中を生きているのが、この世の姿なのかも知れません。
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仏説無量寿経(下巻)㉟「第三の悪」
 第三の悪は「邪淫」です。
「その者はいつもよこしまな思いを抱き、淫らなことばかり考えて悶々と思い悩み、愛欲の心が入り乱れて、何をしていても安まることがない。
 そしてあくまで執念深く淫らな思いをとげようとばかりする。きれいな人を見ては流し目を使って淫らな振る舞いをし、自分の妻を疎ましく思ってひそかに他の女性の所に出入りする。そのために家財を使いはたして、ついには法を犯すようになるのである。
 ある者は徒党を組んで互いに争い、相手をおどかし攻め殺してまで欲しいものを強奪するという非道な行いに及ぶ。
 ある者は他人の財産に目をつけ、自分の仕事をおこたり、それを盗んで少しでも得られると、欲にかられて一層大きな悪事をはたらくようになり、ついには、びくびくしながらも他人を脅して財産を奪い取り、それによって妻子を養い、手当たり次第に淫らな楽しみを貪る」。
 少し長いですが、そのまま引用しました。
 とても二千五百年前の話とは思えません。この文を読んで、どなたかご縁のある方の姿が思い浮かんだでしょうか。しかし、お経はわが身において味わうのが肝要です。
「どこかにいる悪いヤツ」の話ではなく、私のことを言い当てているお言葉と頂戴したいものです。
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仏説無量寿経(下巻)㊱「第四の悪」
「第四の悪とは次のようである。世間の人々は善い行いをしようとせず、互いに次々と人をそそのかして、さまざまな悪を犯している。二枚舌を使い、人の悪口をいい、嘘をつき、言葉を飾りへつらって、人を傷つけ争いを起こすのである」
 人間は言葉の世界を生きています。言葉を通して考えや気持ちを伝え、言葉を通してそれを受け取ります。この言葉を駆使するということが他の動物と人間を分かつ際目と言えるかも知れません。
 仏教では「口業」といい、言葉による行いも我が身の上に業として蓄積されていくと考えます。訂正や撤回はできても、語られたという事実は消えません。
 言葉は時に人を勇気づけ、大きな支えとなりますが、一方では他者を傷つけ、場合によっては命を奪ってしまうことさえあります。そのいずれにせよ、仏様の智慧の世界から見れば煩悩から発せられる人間の言葉に真実はないと言えます。だからこそ、私達は自らの発する言葉に責任を持たなければなりません。
  
 悪い言葉は他者を害するだけではなく、語った本人も傷つけるものです。私達は仏様の真実の言葉によってはじめて、無自覚に妄語(もうご)の業を重ねている我が身に気付くことが出来るのでしょう。
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仏説無量寿経(下巻)㊲「第五の悪」
 第五の悪では、勝手気ままに振る舞い、自分の愚かさは省みずに他人をおとしめ、罪を作り続ける者を釈尊が戒められます。
 また因果の道理をわきまえず、自ら苦しみの世界へ赴くことを嘆かれるのです。
 その中には「人の善あるを見て、憎嫉してこれを悪む(人が善いことをするのを見ては嫉んで憎む)」とあり、自分を言い当てられているようでハッとさせられます。
 善いことをしている人を見たならば称賛すれば良いのですが、私たちの心はそう単純ではないようです。
 同じように出来ない自分を正当化するために、その人をおとしめる方向へ気持ちが動くことがないでしょうか。ボランティア活動をしている人を批判したり、社会的に認められている人の欠点を探してみたり。卑近なところでは、自分がついて行けない物事をけなしては「昔は良かった」と嘆くことも含まれるかも知れません。
 釈尊は、このような世間の人々の心はみな同じであると仰っています。道理が分からず愚かでいながら、自分は智慧があると思っている。
 
「生の従来するところ、死の趣向するところを知らず」。
 
 自分のいのちが一体どこへ向かっているのかという問いも持たずに、ただ生きているのが私たちであるというのです。
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仏説無量寿経(下巻)㊳「誰もこれに代わるものはない」
「この世界は五道輪廻の因果の道理が明白であって、それは実に広く深いものである。善い行いをすれば自分自身にしあわせをもたらし、悪い行いをすれば自分自身にわざわいをもたらすのであって、誰もこれに代わる者はない」
 善悪応報の道理は仏教の基本ですが、ここは気をつけて味わう必要があります。釈尊も仰っているように、善悪の因果は広く深いもので私たちの思議が及ぶものではないからです。
「あの人が今苦しんでいるのは、過去にこんなことをしたからだ」というように、因果を単純に結び付けて他者を裁くことは、いわれのない差別を生みかねません。
 ここで大切なのは「誰もこれに代わるものはない」というお言葉でしょう。自らの行いがもたらす結果は誰も代わってくれません。全ては自分が引き受けていかなければならないということです。
 それは今生だけに限った話ではなく、生死の繰り返しの中で自ら背負っていくものです。
 だからこそ釈尊は善い行いを勧められるのですが、その裏には善行を積めず流転輪廻を繰り返す者に、阿弥陀様のお救いを告げようという真意があります。
 誰のせいでもなく、自らの行いで迷い続けるいのちを、必ず仏にするはたらきがあるのだと。
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仏説無量寿経(下巻)㊴「因果の網」
「因果の道理はちょうど網を広げたように世界中をおおい、一つの罪も見逃すことなく数えあげ、その張りめぐらされた網にすべてのものは捕らえられて、逃れることができない。
 ただひとりおののきながら、その網にかかって報いを受けるのである。これは今も昔も変わることがない。まことに痛ましいかぎりではないか」
 この喩えに示されているように、因果というのは人間の思いやはからいを越えて、私たちを捕らえているものです。
「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざがあるように、我が身の行いは世界を覆う網を通して思わぬところに影響を与えます。つまり地球の裏側で起こっていることであっても私と無関係なものはひとつもないということです。
 大げさなようですが、宇宙の起こりから今日、そしてはるか先の未来まで「私」と無関係のものはなく、私ひとりがいなければ宇宙の歴史も変わるというのが仏教の世界観です。
 そう考えますと「あなた一人を救えないようなら仏とはならない」という阿弥陀様のお誓いもうなずけるような気がしないでしょうか。たとえ宇宙の片角のちっぽけないのちであっても、阿弥陀様にとっては掛けがえのない、宇宙全体に等しい「私」なのですから。
アンカー 40
仏説無量寿経(下巻)㊵「伝わってゆくもの」
「そたなをはじめとして、この世の天人や人々および後の世のものは、仏の教えを聞いてよく思いをめぐらし、この迷いの世界にあっても、心も行いも正しくするがよい。上に立つものは善い行いをして下のものを導き、次々と仏の戒めを伝えていくがよい」
 仏法というのは人を通して伝わってゆくものです。
 蓮如上人に「往生は一人一人のしのぎなり」というお言葉があります。浄土に生れ仏になるということは他人事ではなく、我が身一人のお救いと味わうのが肝要ですが、この「一人一人のしのぎ」が、人と人との関わり合いの中で仏法のご縁を結んでゆくのでしょう。それは「私だけが救われる」という閉じた教えではなく、あらゆるいのちが救われていくという大乗仏教の本質と言えます。
 また親鸞聖人は『教行信証』の最後に、
「前(さき)に生れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す」と、道綽禅師の『安楽集』を引用されています。
 お念仏の相続とは、先にに浄土へ生れた方が残された者を導き、残された者が先に生れた方々を慕い訪ねていく営みではないでしょうか。その営みが休むことなく繋がっていくようにと、お釈迦様も願われているのです。
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仏説無量寿経(下巻)㊶「往生即成仏」
「そなたたちはこの世界でひろく功徳を積み、恵みを施し、仏の戒めを破ってはならない。(中略)心をただしくして仏の戒めをわずか一昼夜でも清らかにたもつなら、それは無量寿仏の国で百年間善い行いに励むよりもまさっているといえる」
 優れた土壌と気候があれば、作物は良く育ちます。一方、やせ枯れた土地に同じ作物を取ろうと思えば相当な努力が必要でしょう。同様に、悪がなく覚りにかなった浄土とくらべて、この世での善い行いははるかに難しく、値打ちがあると釈尊は言われるのです。だから修行に適さない娑婆世界を離れて、環境の整った浄土に生れて後に善行を積み、仏になるというのが浄土教の一般的な考え方です。
 しかしながら親鸞聖人は、
「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す(教行信証 信巻)」と記され、浄土に生れた者はすみやかに覚りの仏となると明らかにされました。なぜなら浄土とは修行に適した単なる「場所」ではなく、阿弥陀如来の功徳が成就した世界、「覚りのはたらき」を指す言葉であるからです。
 悪も煩悩もない浄土には、覚りへの不足というものはありませんから、どのような水も海に達して海水と一味になるように、浄土に生れた者はそのまま阿弥陀様と同じ覚りの仏とならせて頂くのです。
アンカー 42
仏説無量寿経(下巻)㊷「兵戈無用」
「仏が歩み行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのために世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲りあうのである」
 仏法が広まり、お念仏のみ教えが行き渡るところは、自ずと安らかな世界を生み出していきます。
 このご文の中の「武器を取って争うこともなくなる(兵戈無用)」という言葉は、平和へのスローガンとしてよく用いられますが、「武器をなくそう」ではなく「武器が無用となる世界を」と示すところが仏教的立場と言えましょう。
 表面的にいくら武器を取り払っても、その武器が生み出される根本的な問題を解決しなければ、違う形でまた苦悩が生まれてくるからです。
 親鸞聖人はお手紙の中で「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と述べられています。
 昔からお念仏が盛んな土地は「土徳がある」と言い表されてきました。仏さまを敬う中で、自然とお互いを尊重し合う徳と気風を育んでいったのでしょう。
 お念仏が広まることは、安穏なる世の中を実現することでもあるのです。
アンカー 43
仏説無量寿経(下巻)㊸「慈悲の父母」
「わたしがそなたたち天人や人々を哀れむのは、親が子を思うよりもなお一層深い。だからわたしは今この世界で仏となって、五悪を打ち負かし、五痛を取り除き、五焼をすべてなくして、善をもって悪を攻め滅ぼし、迷いの世界の苦しみを抜き去り、五徳を得させて、安らかなさとりの世界に至らせるのである」
 釈尊による五悪段の締めくくりの言葉です。
 これまで聞く者にとっては耳が痛いご説法が続きましたが、釈尊が厳しく説かれたのは、社会秩序を守るためでも道徳のためでもありません。親が子を思うよりも深く、私たち衆生の有り様を哀れみ、救いたいと思われたからです。
 
 親鸞聖人はご和讃で、
「釈迦弥陀は慈悲の父母 
  種々に善巧方便し
  われらが無上の信心を
  発起せしめたまいけり」(高僧和讃)
と詠まれました。「善巧方便(ぜんぎょうほうべん)」とは、仏さまが私たちを救う手立てのことです。
 衆生を救う阿弥陀様と、それを勧めるお釈迦様が父母のように私たちにはたらきかけて、私たちにこの上ない信心を起こさせます。それは親に抱かれた赤ん坊が安心して身をまかせている様子に似ています。信心とは、み仏のお慈悲の中にいる安心を言うのです。
アンカー 44
仏説無量寿経(下巻)㊹「光の如来」
 釈尊が弥勒菩薩に、これまで述べた仏の教えを正しく守るよう戒めると、弥勒菩薩もその仰せに従うことを誓います。そして傍らで聞いていた阿難尊者に告げるのです。
「阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく無量寿仏(阿弥陀仏)を礼拝するがよい」
 阿難尊者は仰せのままに西方に向かい、はるかに無量寿仏を礼拝して言いました。
「世尊、どうぞ無量寿仏とその国土、そしてそこにおられる菩薩や声聞の方々を目の当たりに拝ませて下さい」
 すると、無量寿仏は大いなる光明を放ち、広く全ての仏がたの国々を照らしました。それはまるで大洪水で世界が沈み、見わたす限り水で覆われてしまったように、他の菩薩や仏がたの光明を隠してしまう程の輝きでした。
 親鸞聖人は阿弥陀さまについて、
 
「この如来は光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆえに、無辺光仏と申す。しかれば世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり」
 
と仰っています。
 阿弥陀さまは限りない光の仏さまであり、私たちはいつでもその光に抱かれてあります。
アンカー 45
仏説無量寿経(下巻)㊺「見てござる聞いてござる知ってござる」
 阿難は無量寿仏(阿弥陀仏)の姿が須弥山のごとく高くそびえ、そのお体から放たれる光明がすべての世界を照らす様子を目の当たりにしました。
 そしてそれは阿難だけでなく、出家の者も在家の者も、男も女もその場に集まっていた者は皆同時に拝見し、また無量寿仏の国からも同じようにこの世界をご覧になったのでした。
 中国の善導大師は、私が礼拝するとき、阿弥陀如来は一拝もあまさず見とどけて下さり、私がお念仏を称えれば一声も聞き逃さず、私が如来や浄土を想えばその心を必ず知って下さっていると仰っています。
 つまり阿弥陀様を思う私は、阿弥陀様に思われている私ということです。何だかいつも監視されているようで居心地が悪いでしょうか。       
 しかし、どのような私であっても決して見捨てることはないという阿弥陀様のお心が根っこにあるのですから、見抜かれていることはむしろ安心なのです。
 阿弥陀様の前では何も取り繕う必要はありません。
 この後、釈尊はお浄土の人々にも広い宮殿にいながら、自在に出入りしている者(化生)と、宮殿の中に閉じこもっている者(胎生)がいることを明らかにされます。
 では、その区別はどこにあるのでしょうか?
アンカー 46
仏説無量寿経(下巻)㊻「胎生と化生」
 釈尊は、阿難と弥勒菩薩に告げられます。
 浄土には広い宮殿にいながら何の妨げもなく自由に出入りしている仏がたと、宮殿の中から出ずに楽しみを享受している者がいると。
 前者は本当の仏様のお姿で「化生」と言います。後者は、まるで母親の胎内に閉じこもっているようであることから「胎生」と言います。ではその区別はどこにあるのでしょうか。
 
 それは阿弥陀様の「そのまま救う」という願いを信ずるか疑うかによるのだと釈尊は説かれています。
 ご本願を信じおまかせする者は、真実の浄土にて阿弥陀様と同じさとりの仏となります。しかし、自身の善根功徳を手柄として浄土に生れようとするものは、自力のはからいによって浄土の端の宮殿に閉じこもり、五百年の間、阿弥陀様にも諸仏がたにも遇うことが出来ないというのです。
 これは、自力のとらわれを離れられない者のために用意された仮の浄土ですから、楽しみの世界であることには違いありませんが、自力の執心に埋没した閉じた世界であると言えます。
 親鸞聖人は
 
「仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智恵もなし 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり」
 
と、阿弥陀様のご本願を疑うことを戒めておられます。
アンカー 47
仏説無量寿経(下巻)㊼「弥勒と同じ」
 弥勒菩薩は釈尊に、この世界から不退転の位にある菩薩がどれだけ無量寿仏の国に生まれるのかを尋ねました。
「この世界からは、六十七憶の菩薩がその国に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は弥勒よ、そなたと同じである。その他、行の劣った菩薩やわずかな功徳しか積んでいない者も数えきれないほどいるが、どの者もみなその国に往生するであろう」
 親鸞聖人はこの「弥勒よ、そなたと同じである」と示された者を、我々念仏者のことと味わわれました。
 私たちは凡夫の身でありながら、次の生で仏となる身においては、釈尊の後をついで仏となる弥勒菩薩と同じ立場にあるというのです。そして五十六億七千万年後に仏となる弥勒菩薩に先んじて、念仏の衆生はさとりの仏とならせていただくのです。
 続けて釈尊は、
「その世界の者だけではない。他の仏の国からも同様に往生するのである。第一に遠照仏の国からは百八十億の菩薩がみな往生するであろう。第二に─」
と、十三の仏国を挙げられ、さらにお浄土に生まれる者の数は説きつくすことができないほど多いと結ばれます。
 まさに阿弥陀様の分け隔てないお救いが示されていると言えましょう。
アンカー 48
仏説無量寿経(下巻)㊽「火の海をこえて」
 釈尊が弥勒菩薩に仰せになりました。
「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」
 長く拝読して参りました『仏説無量寿経』も、いよいよ流通分(るづうぶん)と呼ばれるお経の結びに入りました。
 火の海という言葉は戦争を想起させますが、ここは人間同士の諍いのみならず、煩悩の炎が盛んに燃えた世界と味わいたいと思います。  
 人間はこれまでの歴史で、限りなく欲望を増大させてきました。それはこの先も止まることはないでしょう。しかしどれだけ煩悩の炎がこの身を包もうとも、この身を焼き尽くさせない大きなはたらきが届いています。
「たとい大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり」(浄土和讃)
 迷いの境涯に決して退くことのない人生を、反省と喜びの中に歩ませて頂くのです。
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仏説無量寿経(下巻)㊾「いつでものお救い」
「私は今、全ての者のためにこの教えを説き、さらに無量寿仏とその国土の様子を残らず見せた。この上にまだ尋ねたいことがあるなら躊躇うことなく問うがよい。私がこの世を去った後に疑いを残すようなことがあってはならない。
 やがて将来、私が示した様々な覚りへの道はみな失われてしまうであろうが、私は慈しみの心をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後いつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出あう者は、みな願いに応じて迷いの世界を離れることが出来るであろう」
 お釈迦様は自身が入滅された後、時代を経るにつれて仏教が衰退していくことを予測されていました。
 
 最初の五百年(あるいは千年)は教え(教)も修行(行)も覚り(証)も揃った正法の時代。次の千年は教と行があって、証が失われた像法の時代。さらに次の一万年はお経という教えだけが残って、正しく行ずる者も覚りを開く者もいない末法の時代です。
 
 今はこの末法の真っ只中、お釈迦様のように自力で仏になるのは不可能な時代です。やがては法滅といって教えすら失われる時がやってくるのですが、お釈迦様は、法滅の時代にあっても南無阿弥陀仏だけはあらゆるいのちを救い続けると仰っています。
 そして親鸞聖人は正信偈の中で「末法の世だけでなく、南無阿弥陀仏は全ての時代を通したお救いであると讃えておられるのです。
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仏説無量寿経(下巻)㊿「同じ他力のお念仏」
 さて今回で『仏説無量寿経』の拝読も最終回となります。
 
 私たちはこの度、生れがたき人間に生れ、聞きがたき仏法を聞き、遇いがたき南無阿弥陀仏の喚び声に出遇いました。
 
 最後にこのお経が説き終えられた時の様子を記して閉じさせて頂きます。
「釈尊がこの教えをお説きになると、数限りない多くの者が皆この上ない覚りを求める心を起した。一万二千那由他の人々が清らかな智慧と眼を得、二十二億の天人や人々が阿那含果を得て、八十万の修行僧が煩悩を滅し尽して阿羅漢の覚りに達し、四十億の菩薩が不退転の位に至り、人々を救う誓いをたて、様々な功徳を積んでその身にそなえ、やがて仏となるべき身となったのである。
 その時、天も地も様々に打ち震え、大いなる光明はひろく全ての国々を照らし、実に様々な音楽がおのずから奏でられ、数限りない美しい花があたり一面に降りそそいだ。
 釈尊がこの教えを説き終わられると、弥勒菩薩をはじめ、様々な世界から来た菩薩達や、阿難などの声聞の聖者達、並びにそこに集うその他全ての者は、その尊い教えを承って、誰ひとりとして心から喜ばない者はなかった」
 この場にいた誰もがお念仏申したことでしょう。
 私達もこのご説法の場と同じお念仏を頂戴したいと思います。
 
 南無阿弥陀仏──。
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